201709/04
希望の門と杉原千畝「命のビザ」
スギハラハウスに刻まれた人道の決断
この門は、杉原千畝氏が「命のビザ」を求めて集まった人々を領事館へ招き入れた、歴史的な門です。
そこには、「希望の門 命のヴィザ」と記されています。
1940年7月18日の早朝、杉原氏がカーテンを開けると、カウナスの日本領事館は大勢のユダヤ系避難民に取り囲まれていました。
ナチス・ドイツとソ連によるポーランド侵攻を受け、故郷を追われてリトアニアへ逃れてきた人々です。着の身着のまま、家族を伴い、幾日もの移動を重ねて日本通過ビザを求めていました。▶杉原千畝記念館・岐阜県八百津町
しかし、日本政府が定めていたビザの発給要件を満たしていない避難民も少なくありませんでした。当時の規定では、最終目的国への入国許可や、旅行に必要な資金などを有していることが求められていたためです。
杉原氏は本省へ照会を重ねましたが、返ってきたのは規定に沿って対応するよう求める回答でした。
外交官として国の方針に従う責務と、目の前で助けを求める人々の命を守るという人道的判断。その間で、杉原氏は深く苦悩したと伝えられています。
そして1940年7月29日、避難民が領事館へ集まってから11日後、杉原氏は自らの良心に従い、日本を通過するためのビザ発給を開始しました。▶在ロサンゼルス日本国総領事館
「これから皆様にビザを発給します」
その知らせは、先の見えない状況に置かれていた人々にとって、生きる希望そのものだったに違いありません。
杉原氏は限られた時間の中で、昼夜を問わずビザを書き続けました。外務省の記録によれば、発給されたビザは2,000通を超え、多くの人々が国外へ脱出するための道を開きました。▶外務省外交史料館
後に夫人の杉原幸子氏は、民族の違いにかかわらず命の重さは同じであり、助けを求める人がいて、自分に手を差し伸べる力があるならば見過ごすことはできない――それが夫の信念だったと振り返っています。
この門をくぐった人々が求めていたのは、特別な待遇ではありません。ただ、生きること、家族とともに安全な場所へ逃れることでした。
杉原氏は、国籍や民族、宗教の違いを越え、一人ひとりをかけがえのない人間として受け止めました。この門は、その人道的な決断によって多くの命が未来へつながったことを、今も静かに伝え続けています。
私たちが再生に携わったのは、一つの歴史的建造物だけではありません。杉原千畝氏が示した勇気と慈愛、そして人間の尊厳を何よりも大切にする心を、次の世代へ受け継ぐための場所です。
「希望の門」がこれからも、訪れる人々に命の尊さと、目の前の人を救う勇気の大切さを語り続けることを願っております。
※映像は9月のスギハラハウスプロジェクト完了後に作成させて頂いたものです。





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